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「記録(スナップショット)」が、わたしたちに与えるものと奪っていくもの

読了目安 12分
「記録(スナップショット)」が、わたしたちに与えるものと奪っていくもの

「スナップショット」とは、目の前の一瞬を切り取り、残しておくこと

現代を生きるわたしたちは、日常のいたるところでスナップショットをしています。
それは、写真を撮ることだけではありません。メモを取ること。予定をカレンダーに入れること。ふとした出来事や、そのときに感じたことを言葉にすること。こうした行為も、広い意味ではスナップショットと呼べるのかもしれません。

旅行先で見た景色。子どもの表情。友人と過ごした夜。ふと思いついたアイデア。忘れたくないものを、わたしたちはすぐに記録できます。それは、とてもありがたいことです。あとから見返せる。誰かに渡せる。「たしかにそこにあった」と確認できる。

けれど、ときどき不思議に思うことはないでしょうか。

ちゃんと残しているはずなのに、なぜか記憶が薄い。写真は増えているのに、見返すことはほとんどない。予定はこなしているのに、一日が細かく切り分けられ、どの時間にも深く触れないまま過ぎていく。

記録することは、わたしたちに何を与えてくれるのでしょうか。
そして、その陰で少しずつ失われているものがあるとしたら、それは何なのでしょうか。
今回は、「記録すること=スナップショット」という行為について、掘り下げていきたいと思います。

1
街が一瞬「ギラギラ」して見えた、10年前のあの日

映画館を出て夜の街を見下ろすエスカレーターのイメージ

映画館を出たら、世界が違って見えた

誰にでも、なぜか忘れられない風景があると思います。

わたしの場合は、10年ほど前、新宿のTOHOシネマズで映画を観た帰りに目にした景色。

映画館を出る途中に、3階ほどの高さから地上へと下りていく、長いエスカレーターがあります。正面には、歌舞伎町の通りがまっすぐ伸びています。

その日、エスカレーターに乗った瞬間、街の景色が、わっとわたしの目に飛び込んできました。

時刻は、午後8時ごろ。通りには、たくさんの人が歩いていました。
一人ひとりの姿が、まるで手を伸ばせば触れられそうなほど鮮明で、生き生きとして見える。
人だけではありません。周囲の建物、店の入り口、看板、広告。街をつくるすべてのものが、いつも以上に強い光を放ち、ギラギラと輝いていました。

それまでにも、その映画館には何度か足を運んでいました。けれど、同じ景色をこんなふうに感じたことは、一度もありませんでした。見慣れているはずの街が、まるで初めて見る場所のように思えたのです。そしてわたしは、なぜだかとても楽しく、幸せな気持ちになりました。

そのとき観た映画は、『君の名は。』
わたしはアニメ映画のなかでも、特に少年少女の成長や出会いを描いたジュブナイル作品が好きで、観るたびに自分の若かったころを思い出し、懐かしさやメランコリックな気分に浸るのですが、この映画にもひどく心を動かされました。

そして、その感動の余韻が冷めやらぬうちに映画館を出たときに、文字通り「世界がいつもと違って見えた」わけです。

映画は、友人と二人で観に来ていました。
映画館を出たあと、近くの居酒屋に入り、遅めの食事をしました。自然と話題は、さきほど観た映画のことになります。

そこで初めて、友人が、わたしほどには映画に満足していなかったことを知りました。
わたしは、この映画のどこがよかったのかを説明しようとしました。あの場面の何に心を動かされたのか。あのメタファーが、なぜあれほど自分に刺さったのか。
けれど、うまく言葉にできません。口から出てくるのは、どこかで聞いたことのあるような、ありきたりな感想ばかりでした。

話せば話すほど、あれほど大きかった感動が、言葉の大きさに合わせて小さく収斂していく。
わたしの中にあったはずのものが、説明できる範囲だけに切り取られ、別のものへと変わっていく。

話しているうちに、映画館を出た直後まで感じていた、あの鮮やかな感覚が少しずつ薄れていくのが分かりました。

そして食事を終えるころには、世界はすっかり、いつもの姿に戻っていました。

──このときの体験を一言で表すなら、こうなります。

感動したことを人に話そうとして、かえってその感動が小さくなってしまった。

同じような経験をした人も、きっといるのではないでしょうか。

「今は、この瞬間のなかにいたい。」

一方で、感動の大きさを、そのまま大切にできる人もいるのでしょう。

2013年に公開された映画『LIFE!/ライフ』。


この映画に、ショーン・オコンネルという写真家が登場します。演じているのは、ショーン・ペン。雑誌『LIFE』の専属カメラマンで、世界中のどこへでも一人で入っていく、伝説的な人物として描かれています。
映画のなかで彼が姿を見せる時間は、決して長くありません。それでも、そのたたずまいはとても格好よく、そして強く印象に残ります。

物語の終盤、主人公はヒマラヤの山中で、ようやくショーン・オコンネルと出会います。
ショーンは、雪の斜面にレンズを向けていました。狙っているのは、ユキヒョウ。めったに姿を見せないことから、「ghost cat(幻の猫)」と呼ばれる動物です。

やがて、その姿が現れます。

ファインダーのなかに、いる。
指はシャッターにかかっている。いつでも撮れる。
それなのに、彼は撮りません。

主人公が、なぜ撮らないのかと尋ねます。すると、ショーンは、こんなふうに答えます。

「今は、この瞬間のなかにいたい。カメラに邪魔されたくないんだ」*1

わたしが映画館を出たあとの話と、ショーンがユキヒョウを撮らなかった話。一見すると、二つを並べる理由はありません。それでも、どこか似ているように思えます。

わたしの感動は、言葉にしようとしたことで小さくなりました。
ショーンは、目の前の感動を写真に変えないことを選びました。

片方では、記録することで何かが失われた
もう片方では、記録しないことで何かが守られた

この「何か」とは、いったい何なのでしょうか。

*1 参考文献:映画『LIFE!/ライフ』(原題 The Secret Life of Walter Mitty、ベン・スティラー監督、2013年)。

2
わたしたちの頭は、常に世界を「記録」しようとして止まない

動いているものは、そのままでは掴めない

流れ続ける現実をスナップショットとして切り取るイメージ

いよいよ、本コラムのテーマ「記録(スナップショット)」について、話を進めていきたいと思います。

フランスの哲学者アンリ・ベルクソンが1907年に書いた、『創造的進化』という本があります。生き物の進化について論じており、そのなかにこんな一節が出てきます。

「われわれは、いわば、流れゆく実在のスナップショットを撮っている。」*2

ベルクソンは、現実を絶えず変化し続ける「流れ」と捉えました。しかし人間は、その流れをそのまま理解できず、ある瞬間ごとに切り取り、固定された物事として認識します。つまりわたしたちの知覚や言葉は、動き続ける現実を静止画のように捉えている、という意味です。

注目すべきは、ここでベルクソンは「スナップショット」という言葉を使っていたことです。なにしろ百年以上前のことですし、カメラはまだ一部の人のものでしたし、スマホもカメラロールもありません。
にもかかわらずベルクソンは、わたしたちの頭の働きそのものを、「スナップショットを撮ること」だと言いました。

世界は、ずっと動いていて、完全に止まっている瞬間はありません。ところがわたしたちの頭は、動いているものを、動いたままではつかめない。だから、それをいったん止め、切り取り、並べます。

ベルクソンは、こうした思考の働きである「分析」について、別の著作で論じています。
分析とは、目の前にあるものを、すでに知っている要素へと置き換えていく作業である、と*3

ここで、映画『LIFE!/ライフ』の終盤に描かれた場面を思い出してみましょう。

ヒマラヤの山中で、主人公とショーンが見つめる先に、雪の斜面にたたずむユキヒョウがいました。
シャッターを切れば、その姿を写真として残すことができます。
けれど写真のなかに収められるのは、その瞬間から切り取られた、ユキヒョウの姿です。

山を包む静けさ。張りつめた空気。そこへたどり着くまでに費やした時間。そして、ユキヒョウが姿を現した瞬間に生まれた驚き。
その場で動き続けていたものの多くは、写真の外側にこぼれ落ちてしまいます。

ショーンが「カメラに邪魔されたくない」と言ったのは、そういうことだったのではないでしょうか。彼は、目の前の瞬間を記録に変えるのではなく、そのまま受け取ろうとしたのかもしれません。

「うまく言葉にできない」は、それがまだ「流れている最中」ということ

まだ言葉にならない感情の流れをイメージしたイラスト

もちろん、記録すること自体が悪いわけではありません。

写真に残せば、あとから見返すことができます。言葉にすれば、自分の考えを整理したり、誰かと分かち合ったりできます。記録があるからこそ、時間や場所を越えて残せるものもあります。

ただ、ここで考えてみたいのは、記録することによって、目の前の出来事がどのように変わるのか、ということです。

感じたことを言葉にすることも「流れ続けているものの一部を切り取り、形にして残す行為」であると捉えた際、冒頭で紹介した、映画館を出たあとの出来事も、一つの記録の場面だったと言えるでしょう。

わたしは、映画を観て生まれた感動を、友人に伝えようとしました。あの場面の何がよかったのか。なぜ、見慣れた街があれほど鮮やかに見えたのか。けれど、うまく話せませんでした。

こういうとき、わたしたちはつい、「自分には語彙力がない」と考えます。もっと言葉を知っていれば、もっと感性が豊かなら、きちんと説明できたはずだ、と。

けれど、それは実は言葉が足りなかったのではなく、言葉にしようとしたことで、それまで動き続けていた感動の流れを、途中で切り取ってしまったのかもしれません。
「うまく話せない」というもどかしさは、単なる表現力の不足ではなく、流れのなかにあった体験を記録できる形に変えようとしたとき、多くの人が直面するジレンマなのではないでしょうか。

*2 参考文献:アンリ・ベルクソン『創造的進化』(1907年)第4章。英訳 Henri Bergson, Creative Evolution, trans. Arthur Mitchell(1911年)より拙訳。原文は “We take snapshots, as it were, of the passing reality”。英訳全文:Gutenberg版 Creative Evolution /邦訳は『創造的進化』(真方敬道訳・岩波文庫/合田正人・松井久訳・ちくま学芸文庫)
*3 参考文献:アンリ・ベルクソン「形而上学入門」(1903年)。分析を「対象を、すでに知られている要素、すなわち他の対象と共通する要素へと還元する操作」と定義している。邦訳は『思考と動くもの』(河野与一訳・岩波文庫/原章二訳・平凡社ライブラリー)ほかに所収

3
知らずのうちに「スナップショット」で彩られてしまった日常

言葉にする。予定を決める。数字を確認する。出来事を分類し、名前をつける。
日常を振り返ってみると、わたしたちは、流れ続ける時間を細かく切り取り、記録できる形に変えながら暮らしています。──そして、その働きがもっともよく表れる場所のひとつが、職場でしょう。

職場は「記録」の連続

議事録やメール、カレンダーなど職場の記録作業のイメージ

仕事の多くは、記録することで成り立っています。

会議を開けば議事録を残し、決定事項はメールで確認する。予定をカレンダーに入れ、売上を表にまとめ、領収書や見積書、請求書を発行する。誰が、いつ、何をしたのかを記録することで、複数の人が同じ仕事を進められるようになります。

これらはすべて、売上や利益、あるいは会社のミッションやビジョンといった、より大きな目的を実現するために欠かせない作業です。

ただ、仕事を細かな記録へと切り分けるたびに、その先にあった目的が見えにくくなることもあります。会議を終えること。メールを返すこと。予定どおりに進めること。書類を正しくそろえること。
一つひとつは必要でも、それらをこなすこと自体が目的になったとき、わたしたちは「そもそも何のために、この仕事をしていたのか」を、見失ってしまうことも少なくないのではないでしょうか。

旅行中も、知らないうちにスナップショットに溢れている

旅行先で写真を撮る様子のイメージ

楽しみにしていた旅行も、たくさんのスナップショットで細かく区切られています。
何時の電車に乗るのか。次の目的地まで何分かかるのか。あと何分で店を出なければならないのか。限られた時間を有効に使おうと、予定を詰め込み、スマートフォンで最短ルートを調べます。

景色のよい場所に着けば、写真を撮る。料理が運ばれてくれば、食べる前にカメラを向ける。あとから見返せるように、あるいはSNSで誰かに見せられるように、その瞬間を記録します。

もちろん、予定も写真も、旅を豊かにしてくれるものです。けれど、時間や画面ばかりを気にしているうちに、風の匂いや、初めて歩く街の空気、偶然見つけた店に入る楽しさを、取りこぼしていることもあるのではないでしょうか。

予定や写真を半分にしたなら、旅は少し不便になるでしょう。その代わり、目の前の時間を、もっと深く味わえるようになるのかもしれません。

切り取られた一部分が、すべてに見えてしまう

切り取られた一部分ばかりを見て全体の流れを見失うイメージ

わたしたちは、世界のすべてを記録することはできません。
そのため、重要だと思った部分を選び、切り取り、残します。仕事に必要な数字。忘れてはいけない予定。大切な人の表情。心に残った言葉。

そうして記録されたものは、日々を生きるための目印になります。過去を振り返り、未来を考え、他者と経験を共有するためにも、記録は欠かせません。

ただし、その切り取られた部分ばかりに目を向けていると、その前後にあった流れは、どうしても影をひそめてしまいます。
人を、過去の一言や一度の行動だけで判断する。自分を、肩書や成果、失敗した出来事だけで説明する。一日の価値を、完了した予定の数で測る。まるで、記録された一部分が、世界や自分のすべてであるかのように。

けれど本来、世界も人間も、止まることなく変化し続けています。
記録は、その流れを理解するための手がかりです。しかし同時に、流れそのものを見えにくくすることもある。

では、記録に囲まれて暮らしながらも、世界や自分のなかにある「流れ」を感じ続けるために、わたしたちにできることはあるのでしょうか。

4
スナップショットでは捉えきれない「流れ」を感じる

現代社会で、記録することを完全にやめるのは難しいでしょう。
だからこそ、記録された一部分だけを世界のすべてだと思わず、ときどき、その外側にある流れへ意識を戻してみる。それは、目の前の世界や自分の人生を、より確かに感じながら生きるための大切な営みなのではないでしょうか。

ここでは、そのための三つの方法を考えてみます。

今の自分に残る「余韻」を感じてみる

過去の余韻がいまの感情に重なるイメージ

ここで、もう一度ベルクソンの主張に立ち戻ってみたいと思います。
2章で紹介したのは、わたしたちは「動いているものは、そのままでは掴めない」ので、「スナップショットで切り取って認識する」という話でした。

では、切り取られる前の状態とは、どのようなものなのでしょうか。

ベルクソンはそれを、「持続」と呼びました。
わたしたちがふだん考える時間は、時計の目盛りのように区切られています。1分が終われば、次の1分が始まる。過ぎた時間は、後ろへ置いていかれる。ですが、実際に生きている時間は、それほどきれいに切り分けられてはいません。ベルクソンは、持続について次のように書いています。

「持続とは、未来をかじりながら進み、進みながら膨らんでいく、過去の絶え間ない前進である。」*4

少し難しい表現ですが、過ぎた時間は完全に消えるのではなく、形を変えながら、いまの自分のなかに残り続けているということです。

ベルクソンは、その例としてメロディーを挙げています。
「ド・レ・ミ」と音が続くとき、「ミ」が鳴っている瞬間には、「ド」と「レ」はすでに鳴り終わっています。それでも、前の音は消えていません。その余韻が次の音に重なることで、わたしたちは三つの音を、ひとつのメロディーとして聴くことができます。

わたしたちの感情も、それに似ています。
いま感じている喜びや悲しみ、焦りや安らぎは、その瞬間だけで生まれたものとは限りません。朝に交わした会話。昨日読んだ本の一節。何年も前の記憶。自分でも忘れていた期待や不安。さまざまな過去の余韻が重なり、いまの感情をつくっています。

だから、何かを強く感じたとき、その感情をすぐに記録し、評価することを急がず、「何が、いまの自分につながっているのだろう」と問いかけてみる。そして、直前に何があったのかを振り返ってみます。
誰と、どのような話をしたのか。何を見たり、読んだりしたのか。過去のどの出来事を思い出したのか。その感情が生まれるまでの流れを、少しずつたどってみるのです。

たとえば、理由もなく気分が沈んでいるように思える日も、振り返ってみると、朝に言われた何げない一言が残っていたり、昨日の失敗を引きずっていたりすることがあります。反対に、いつもの街が少し明るく見える日は、直前に読んだ物語や、誰かとの会話が余韻として残っているのかもしれません。

ひとつ前の音が、次の音へと重なりながらメロディーを奏でるように、過去から続く時間に、静かに耳を澄ませてみる。そうすることで、いまの感情をひとつのスナップショットとしてではなく、自分のなかで続いている流れの一部として捉えられるようになるでしょう。

*4 参考文献:アンリ・ベルクソン『創造的進化』(1907年)。英訳 Henri Bergson, Creative Evolution, trans. Arthur Mitchell(1911年)より拙訳。原文は “Duration is the continuous progress of the past which gnaws into the future and which swells as it advances.”

記録を増やすより、目の前のものを「浪費」してみる

目の前のものを十分に味わう「浪費」のイメージ

哲学者の國分功一郎さんは、『暇と退屈の倫理学』のなかで、「浪費」と「消費」を区別しています*5

ここでいう浪費は、単なる無駄遣いではありません。必要を超えて物を受け取り、それ自体を十分に楽しむことです。一方の消費は、物そのものではなく、そこに結びついた情報や観念を受け取ることだと、國分さんは説明します。
興味深いのは、一般にはネガティブに捉えられがちな「浪費」に、人が物事を十分に味わい、満足するための肯定的な側面を見いだしている点です。

浪費 消費
國分さんの説明 必要を超えて物を受け取り、それ自体を十分に享受する 物そのものではなく、そこに結びついた情報や観念を受け取る
特徴 満足が訪れ、どこかで止まる 満足を得にくく、次の消費へと続いていく

たとえば、おいしい料理を食べれば、やがてお腹がいっぱいになります。もっと食べることはできても、どこかで「もう十分だ」と満足できる。これが浪費です。
それに対して、「話題の店に行った」という情報を得ることが目的になると、一軒訪れても、すぐに次の話題の店が現れます。料理そのものを十分に味わったかどうかにかかわらず、次の情報を追い続けることになる。これが消費です。

つまり、同じ店で同じ料理を食べていても、それ自体を味わっているのか、そこに付随する情報を求めているのかによって、浪費にも消費にもなり得るということです。

仕事においても、同じことが言えるかもしれません。
商談を何件こなしたか。メールを何通返したか。タスクをいくつ完了したか。こうした記録は、仕事を進めるうえで欠かせません。しかし、記録を増やすことだけが目的になると、一つ終えてもすぐに次が現れ、「もっと処理しなければ」という状態が続きます。
一方で、顧客の話を納得するまで聞く。ひとつの課題について、十分に考える。目の前の仕事にじっくり向き合うことで、「ここまで考えた」「きちんと話を聞けた」という実感とともに、いったん終えることができます。

國分さんのいう「浪費」とは、終わりなく記録を増やす日常から少し離れ、「もう十分だ」と思えるところまで、目の前の時間をじっくり味わうことだと捉えられます。

ですが、だからといって記録を手放す必要はないでしょう。ただ、目の前のものをすぐに情報や成果へ変えようとせず、まずはそのものを十分に受け取ってみる。そんな意識を持つだけで、毎日は今より少しずつ、彩りを増していくのかもしれません。

*5 参考文献:國分功一郎『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社、2011年。増補新版:太田出版/文庫版:新潮文庫)

何かと交わって、初めて自分の流れの「向き」が見える

他者や風景との出会いが自分の流れの向きを見せるイメージ

わたしたちは、自分の流れを完全にコントロールすることはできません。何に心を動かされるのか。誰の言葉が残るのか。どの出来事によって、ものの見方が変わるのか。その多くは、あらかじめ計画できるものではなく、偶然に左右されます。

哲学者の宮野真生子さんは、こうした「偶然」について研究を続けました。その考えを、次のようにまとめています。

「偶然を生きるとは、「出会う」こと。そしてその出会いにおいて、人は出会った相手を通じて、自分自身を生み出していく。」*6

出会いとは、相手について何かを知ることだけではありません。
自分とは異なる人や考え、風景、物語に触れることで、それまで自分のなかになかった感情や問いが生まれる。そうして、自分自身も少しずつ変わっていく。

つまり、自分の流れは、自分の外にあるものと出会ったときに、ふいに姿を見せることがあるのです。

何かに心を動かされたあと、わたしたちはつい、「楽しかった」「勉強になった」「自分には合わなかった」と、分かりやすい言葉で記録しようとします。

もちろん、それも大切なことですが、すぐに評価を決めてしまう前に、その出会いによって、自分のなかに何が生まれたのかを感じてみる。
何を思い出したのか。どんな疑問が残ったのか。以前とは違って見えるものがあるか。

たとえば、人と会った帰り道。

「いい人だったな」「楽しかったな」と相手の印象を振り返るだけでなく、問いをひとつだけ自分へ向けてみる。

——その人と会って、自分のなかに何が残っただろうか。

ほとんどの場合、大きな変化は感じられないでしょう。けれど、ごくたまに、帰り道の景色が、行きとは違って見える日があります。

新しい疑問が生まれていたり、忘れていたことを思い出していたり、これまで関心のなかったものが気になり始めていたりする。
その小さな変化を、すぐに記録へ閉じ込めず、しばらく感じてみる。自分の外にあるものとの出会いを通して、いま自分がどちらへ流れつつあるのかを知る。それもまた、世界や自分の流れを見失わないための、大切な手がかりになるはずです。

*6 参考文献:宮野真生子『出逢いのあわい——九鬼周造における存在論理学と邂逅の倫理』(堀之内出版、2019年)/宮野真生子・磯野真穂『急に具合が悪くなる』(晶文社、2019年)。上記は、その主張の趣旨をまとめたものです。

5
【まとめ】「今、目の前にある世界とその流れ」を見失わないために

スナップショットの外側で世界が流れ続けているイメージ

ここまでの内容を、いちど振り返ってみましょう。

  • わたしたちは、流れ続ける世界を、言葉や写真、数字という小さな断片に切り取りながら生きている
  • 記録は、過ぎていくものをつなぎ留めてくれる一方で、その前後にあった時間を見えにくくすることもある
  • いま抱いている感情は、その瞬間だけのものではない。昨日の出来事や、遠い記憶の余韻が重なっている
  • ときには、次の何かへ急がず、「もう十分だ」と思えるまで、目の前の時間を味わってみる
  • 人や風景、物語との出会いが、自分のなかの流れがどこへ向かっているのかに気づかせてくれる

記録することは、わたしたちに何を与えてくれるのか。
そして、その陰で失われるものがあるとしたら、それは何なのか。

記録が与えてくれるのは、過ぎていくものをつなぎ留める力です。
一方で、記録によって見えにくくなるのは、切り取られた瞬間の前後にあった「流れ」です。

そこに至るまでに積み重なっていた時間。まだ言葉になっていない感情。目の前のものと出会い、自分のなかで何かが変わりつつある感覚。

記録しようとした瞬間、それらは、分かりやすい写真や言葉、評価の外側へこぼれ落ちてしまうことがあります。

──では、10年前、映画館を出たあとのわたしは、どうすればよかったのでしょうか。

おそらく、感動を友人に話したこと自体が間違いだったわけではないでしょう。ただ、あのときのわたしは、胸のなかでまだ動き続けていたものを、すぐに言葉で説明しきろうとしていました。

「どこがよかったのか」「なぜ感動したのか」と急いで答えを出すのではなく、「まだうまく言えないけれど、いまはこの感覚のなかにいたい」と、しばらく余韻に身を任せてもよかったのかもしれません。

言葉にするのは、そのあとでも遅くなかったはずです。

いまの感情には、過去から続く余韻が重なっています。記録に残らない時間のなかにも、目の前のものを十分に味わう喜びがあります。そして、思いがけない出会いが、自分でも気づかなかった流れの向きを教えてくれることもあります。

だから、ときには記録する手を少しだけ止めてみる。すぐに言葉や評価へ変えず、その瞬間に起きていることを感じてみる。

そして、そのあとで写真を見返したり、言葉にしたりすれば、その記録は、体験を小さく切り取るだけのものではなく、自分のなかに続いていた流れを、もう一度たどるための手がかりにもなるでしょう。

スナップショットを大切にしながら、その外側で、世界も自分も流れ続けていることを忘れない。

それが、「今、目の前にある世界とその流れ」を見失わないために、わたしたちができることなのかもしれません。

あなたのモヤモヤも、
言葉にしてみませんか?

「記録(スナップショット)」が、わたしたちに与えるものと奪っていくものに何かを感じたら、
あなたの想いを誰かに聞いてもらったり、誰かの体験談に触れてみましょう。

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