「私ってどんな人間なんだろう?」
見る人が、自分を見つめるきっかけになる絵を届けたい。
絵は、私にとって「自分を表現する」唯一の手段だった。

キャンバスの上に、盛り上がった絵の具の凹凸。そこに流れ込む、鮮やかなインクの色彩。
赤池藍さんの描く抽象画には、「これを描いた」と一言で言えるようなモチーフがありません。それなのに、じっと見ていると、なぜか懐かしい感情が立ち上がってくる──そんな不思議な力を持っています。
福岡を拠点に活動する赤池さんは、美大受験を諦めた過去があります。画壇とのつながりも、絵の売り方の知識も、何ひとつない「ゼロ」からのスタート。絵筆を取り戻したのは、看護師として、母として走り続けた末に、産後うつで立ち止まったときでした。きっかけは、夫のたった一言。
「絵を描いてみなよ」。
そこから2年。メルカリで800円から始まった彼女の絵は、いま多くの人の手元に届き、画廊での個展やホテルからの依頼も舞い込むようになりました。
本インタビューでは、幼い日に絵を手放した少女が、遠回りの果てにもう一度「自分」を取り戻すまでの軌跡と、彼女が絵に込める「きっかけ」への想いを、辿っていきます。
PROFILE
赤池 藍(あかいけ あい)
福岡県在住の画家。看護大学を卒業後、小児ICUで看護師として勤務。結婚・出産を経て、夫の勧めをきっかけに絵画制作を再開。テクスチャーアートとアルコールインクアートを融合させた独自の抽象画を手がける。SNSを起点に活動を広げ、現在は画廊での個展やホテルへの作品提供など、画家として活動の幅を広げている。
1
絵だけが、「自分らしさ」を表現できるものだった
父の喜ぶ顔が見たくて、絵を描いた。

はじめに、赤池さんの子どもの頃について、絵との出会いと併せて教えていただけますか?
幼い頃の私は不器用で、「何をするにも時間がかかる」。そんな子どもでした。でもその中で、ひとつだけ得意と思えたのが「絵を描く」こと。もしかしたら、不器用すぎて絵なしでは自分を表現できなかったのかもしれませんが笑。
それに、私が絵を描いていると、それを見た両親がとても喜んでくれたんです。とくに私はお父さん子だったので、父の喜ぶ顔が見たくて、よく絵を描いていました。両親は絵画教室にも通わせてくれて。それが、4歳の頃ですね。
お父さまの喜ぶ顔が、絵を描く原動力にもなっていたんですね。そこから、絵はずっと続けていたのですか?
いえ。小学3年生のときに、父が突然、がんと診断されたんです。治療費もかかるし、家計を守るために、もう習い事はさせられないからと、絵画教室も辞めることになりました。
私自身「お父さんが病気だからしょうがない」と、小3ながらに理解して諦めました。でも、一番悔しがっていたのは、父でした。「自分が病気になったせいで、娘が一番大好きだったものを手放すことになった」って、すごく悔しがって、怒っていて。
その2年後、父は亡くなりました。それからは、母がひとりで私と妹、弟を育てていかなければならなくなって。
父が亡くなったことを悲しむ余裕もないほど、母は疲れ果てていました。そして、私たち家族も、精神的にぼろぼろの状態でした。それから、絵を描くことはぱったりとなくなって──。私にとって、空白の時間でした。
「美大には行かせられない」と言われて。
一度は絵から離れることになりましたが、再び描き始めたのはいつ頃だったのでしょうか?
中学校に入って、部活動が始まったときです。美術部があったので、「また絵が描ける」と、迷わず入部しました。
絵を描くのは、約4年ぶりでした。でも、再開してすぐに「私の絵への情熱は、全然消えていなかった」ってわかりました。誰よりも長く集中して、黙々と描き続けることができましたから。
やがてコンクールで賞をもらえるようになり、結果もついてきて。そこから、さらに絵にのめり込んでいきました。
お話を聞いているだけでも、絵に夢中になっていた様子が伝わってきます笑。高校に入ってからも、ずっと描き続けていたのですか?
はい。それで高校生のとき、当然のように「美大に行きたい」と思うようになりました。母に相談したら、母も「何かやれる方法はないか」と一緒に考えてくれて、近所の美術大学の先生にアポを取って、話を聞きに行ってくれたんです。
そこで初めて、美大受験にはデッサンの試験があり、その対策として画塾に通うのがほぼ必須だと知りました。すぐに画塾へ見学に行きましたが、月謝は毎月4万円かかるとのことでした。
翌日、母から「本当に申し訳ないけれど、美大には行かせられない」と言われました。
当時は母がひとりで働いて家計を支えていましたし、私の下には妹と弟もいました。私ひとりにそれだけのお金をかけるのは、現実的ではなかったんです。
美大を諦めることになったとき、どのような気持ちでしたか。その後の進路は、どのように決めたのでしょうか?
ほかに、自分がなりたいものが何もなかったんですよね。自分の人生が、急に空っぽになってしまったような感覚というか。
でも、進路は決めなきゃいけませんから、母が看護師をしていたので「看護師は人のためになる仕事だしな」って思って看護学部に進学しました。
看護学部は勉強も実習も本当に忙しくて、絵のことは忘れて、ひたすら勉強に励んでいました。国家資格を取って、病院にもすぐ就職できて、傍から見ればかなり順調だったと思います。就職先には小児科を選びました。
ここは、私のいるべき場所ではないかもしれない。

数ある診療科のなかで、小児科を選んだのは何か理由があったのですか?
実習ですべての診療科を回るんですが、そこで見た子どもたちのエネルギーがすごくて。毎日痛い注射をされて、飲みたくない薬を飲んで、食べたいものも食べられない。それでも入院生活のなかで楽しいことを見つけようと、一生懸命に生きている。「子どもって、なんて強い存在なんだろう」って。そういう子たちを守りたい、少しでも手助けをしたいと思ったのが、小児科を選んだ理由です。
配属されたのは小児のICUでした。毎日のように、小さな赤ちゃんの命が消えていく現場で、「こんなにも毎日、人の命は失われていくのか」って。もちろんやりがいもありましたが、感情の振れ幅も大きかったです。そして、とっても忙しかった。
今では、そうした職場は少なくなっているのかもしれませんが、当時の私の職場は毎日3時間以上の残業が当たり前で、17時にいったんタイムカードを切ってから、また仕事に戻るような環境。どんどん疲れが溜まっていって、「私は何のために働いているんだろう」と思っていたときに、先輩からこう言われました。
「人のために働いているなら、サービス残業くらい苦じゃないでしょう」
このとき、「ここは私のいるべき場所じゃないかも」と思ったんですね。その気持ちは理解できるし、実際にそうして頑張れる人がいるから、職場もなんとか回っている。だけど、それは私が求める働き方というか、生き方ではない気がする。──結局、その職場は1年で辞めてしまいました。
その後は、どのように過ごされたんですか?
退職して、すぐに結婚しました。子どもにも恵まれて、幸せな生活を送っていたんですけど、その一方で「やっぱり、自分は何ひとつ成し遂げられない人間だったんだ」と、いつも自分を責めていました。「何もできなかったな」「何のために頑張ってきたんだろう」って。
小児ICUを1年で辞めてしまったこともそうでしたが、なによりも、唯一の自分の取り柄だと思っていた絵を、もっと続けて頑張っていたら人生どう違ったんだろう、というのはすごく感じて、もう後悔、後悔……みたいな。
看護師の仕事は、しばらくしてパートという形で再開しました。健診で採血をするなど、時短で働いていました。本格的に働きたい気持ちもありましたが、現実的には難しかったんです。夫が航海士で、半年ほど船に乗ってまったく家に帰らず、その後3カ月ほど家にいて、また半年ほど不在になる。そんな生活でしたから。
私がフルタイムで働けば、子育てとの両立が難しくなります。当然、夜勤もできません。子どもたちもまだ小さかったので、私自身も、本格的に働くのは厳しいと感じていました。
ずっと家にいるというよりは、何か仕事はしていたい、という気持ちがあったということですね。
はい。「絶対に社会には出ていたい」と思っていました。とにかく、ただ家事をして育児をして家にこもるというのは絶対に嫌だと思っていて。少しでも働こうと思って、仕事を探して働いていました。
そこまで強く「社会に出ていたい」と思ったのは、なぜだったのでしょうか?
何だろうな…。やっぱり、自分の人生に何かやりがいを見つけたかったんだと思います。
絵から離れてから、ずっと「私には何もない」と思っていましたから。それが、私にとってとても悔しいことだったんだと思います。「自分に負けた」というか。
そう、社会に出ていたいと思った一番の理由は、自分に負けたくないから。「社会に貢献したい」というよりも、思いのベクトルは自分に向いていました。
2
記憶は薄れても、感情は消えない
夫の一言と、800円の絵。

一度は手放した絵を、もう一度描き始めたきっかけを教えてください。
二人目の子どもを産んだあと、私は産後うつになったんです。もう、すっかり気持ちが落ちてしまって。そのときに夫が「絵を描いてみなよ」って言ってくれたんですね。
夫には、以前から絵を諦めて後悔したことの愚痴を度々聞いてもらっていましたので。それで、絵の具セットまで買ってきてくれて。
ちょっと描いてみたらすぐに「あ、楽しい」って思えた。──昔のようには全然描けないんですよ、そもそも描き方なんて忘れているし。それでも、絵の具を画用紙に載せるだけで楽しい。夢中になって、毎日描き続けました。小さなキャンバスから始めて、気づいたときには1メートルくらいあるキャンバスを選んでいる自分がいました。
絵を描く楽しさが、一気に戻ってきたのですね。そこから、趣味として描くだけでなく、画家としての活動へ踏み出した経緯を教えていただけますか?
描いているうちに、ふと「絵を売ってみようかな」という気持ちになったんですよね。「ひとりでちまちま描いているだけじゃもったいない」という思いもあって。夫とも話して、メルカリに出してみたんです。金額は、800円で笑。
そうしたら、売れたんです。
私が表現したものを「欲しいです」って言って、お金を出して買ってくれる人がいた。たかが800円かもしれない。でも、この800円が、なんてありがたいんだろうって。本当に、涙が出るくらい感動して、そのとき改めて「私、絵を描きたい」と思えたことがすごく嬉しかった。
そこから、「絵描きとして仕事をするには、どうしたらいいんだろう」と考えるようになりました。
オンラインショップを立ち上げて、「このくらい売れれば、自分も画家として自立していける」という金額を計算して、作品の価格を決める。その価格に見合う作品を作ろうと、描き方や作品のサイズも考えるようになりました。
……ただ、それから1年間、まったく売れなかったんですけど笑。
「私を表すものは何だろう」。

作品がまったく売れない時期は、どのような状況だったのでしょうか?
当時は、作品が売れないどころか、誰にも見てもらえない状態でした。
でも、今振り返れば当然なんですよね。絵の売り方も、個展の開き方も分からない。美大を出ているわけでも、美術業界で働いた経験があるわけでもない。業界とのつながりもまったくありませんでしたから。本当に、ゼロからのスタートだったんです。
「この先、いったいどうしたらいいんだろう」そう思いながら、個展を開いている方に話を聞いたり、Instagramで活躍している作家さんにDMを送って、アドバイスをいただいたりしました。
つながりのない私が、どうすれば自分の存在に気づいてもらえるのか。そのことをずっと考え続けて、「今の時代、私に残されているのはSNSしかない」と思ったんですね。だったら、SNSをうまく活用するしかない。ここに活路を見つけるしかない、と。
発信してみて、反応がなければ「これじゃないんだ。じゃあ、次はどうしよう」と考える。少し手応えがあれば、「この方向かもしれない」と、また試してみる。そうしたことを、何度も何度も繰り返しました。
その試行錯誤のなかで、「私を表現する言葉って何だろう」と考えるようになって。見えてきたのが、「看護師」「育児」「画家」という、私を形づくる三つの柱でした。この三つを持っている人は、なかなかいない。だったら、これこそが自分の軸であり、自分にしかできない表現なのかもしれないと思ったんです。
そこを意識して発信するようになって、ようやく、少しずつ人に見てもらえるようになりました。それが、今年(2026年)の1月頃でした。
言葉にならない感情を、描く。
私も、SNSを通して赤池さんの作品に興味を持った一人です笑。ところで、赤池さんの作品スタイルは、どのように生まれたのですか?
最初は、アクリル絵の具だけを使って描いていました。油絵の具に比べて乾くのが早く、発色もいい。乾いたらすぐに上から色を重ねられるので、久しぶりに絵を始めた私にも扱いやすい画材だったんです。私は、海外の作家さんが絵を描いている様子をYouTubeで見るのが好きで。「この人は何をしているんだろう」と思いながら、よく研究していました。
そのなかで出会ったのが、「テクスチャーアート」と「アルコールインクアート」です。
テクスチャーアートは、画面に凹凸をつけて、立体的な質感を生み出す技法です。一方、アルコールインクアートは、鮮やかな発色や、インクがにじむことで生まれる流動的な表現が特徴的です。
テクスチャーアートとアルコールインクアート、どちらにも強く惹かれたんですが、この二つを掛け合わせている人は、当時ほとんど見たことがなかったんですよね。
「組み合わせたら、面白いんじゃないか」。そう思って、いろいろ試してみました。凹凸のあるテクスチャーに、アルコールインクの鮮やかな色や流れを重ねていく。試行錯誤を繰り返すなかで、今の画風が少しずつできていきました。

凹凸のある質感と、鮮やかに広がる色。その二つが、赤池さんらしい表現になっていったのですね。作品には、人物や風景のような、具体的なモチーフは描かれていませんよね。
はい。テクスチャーアートとアルコールインクアートを取り入れた頃から、具体的なモチーフは描かなくなりました。
私が表現したいのは、自分の中にある感情や、そのときに感じていたことなんです。目に見える何かを描くというよりも、形にならないものを絵にしたいと思っています。
なぜ、目に見えるものではなく、「感情」を描こうと思ったのでしょうか?
記憶って、案外すぐに薄れてしまうものだと思っていて。例えば、父との思い出も、年を重ねるにつれて、具体的な場面は少しずつ思い出せなくなっていきます。でも、「父のことが大好きだった」とか、「一緒に遊んでいる時間がとても楽しかった」とか、そのときに感じていたことは、意外と消えないんですよね。
出来事の細かい部分は忘れても、そのときの感情や感覚は、自分の中に残り続ける。私は、それがすごく尊いことだと思ったんです。そして、その感覚はきっと、他者とも「共感」できる。
記憶をそのまま残そうとすると、写真や映像という手段があります。それは具体的な「形」と言っていいのかもしれません。でも、「これが私の大切な思い出」といって見せられても、相手がそこに写っている人や場所を知らなければ、共感するのが難しいこともありますよね。
一方で、喜びや悲しみ、寂しさ、愛おしさといった感情は、誰もがどこかで経験しているものです。
だから私は、具体的な何かを描くのではなく、見る人が自分自身の記憶や感情を重ねられるような、形のないものを描きたいと思いました。
赤池さんの絵を見た人が、そこに自分自身の感情を見つけられるように、ということですね。
そうですね。
例えば、青い絵を見た人が、「この青は、昔誰かと見た空の色に似ている」と感じるかもしれない。そこから、そのとき自分が何を感じていたのか、どんなことを大切にしていたのかを思い出すかもしれません。
私が描いた感情をそのまま受け取ってほしい、ということではないんです。その絵をきっかけに、見る人が自分の内面に触れ、忘れていた感情や、本当はどう生きたいと思っていたのかに気づいてくれたらいい。
言葉ではうまく表せないけれど、確かに自分の中にあるもの。私は、そういう感情を描いていきたいんだと思います。
3
自分の人生を、自分で選び直すこと

自分を変えられるのは、自分しかいない。
ここまでお話を伺っていると、赤池さんは、うまくいかないことがあっても試行錯誤を重ねながら行動を続けてきた印象があります。もともと、行動力のあるタイプだったのでしょうか?
いえ。私、根本はネガティブな人間なんですよ。何でも後ろ向きに考えて、「私はなんてダメな人間なんだ」「もうダメだ、ダメだ」と思って、行動しないタイプなんです。心のどこかで、「誰かが助けてくれるんじゃないか」「いつか誰かが自分を選んでくれるんじゃないか」と思っていたところもありました。
でも、昔の自分に言うとしたら、「誰も助けてはくれないぞ」と伝えたいです。「『いつか、誰かが本当の自分を認めてくれる』と思っているみたいだけど、そんなことはないよ」って笑。
結局、自分を変えられるのは、自分しかいないと思うんですよね。誰かに変えてもらおうと思っている間は、ずっと変わらない。
だから、嘘でもいいから、自分を信じてみる。少しでも「できるかもしれない」と思って動いてみると、「これならできた」「ここは前よりよくなった」と思えることが出てきます。そうすると、また次のことを試してみようと思える。
そうやって、自分で自分を見る目を、少しずつ変えていくことが、私にとっては大事だったんだと思います。
「誰も自分を支えてくれない」「私は恵まれていない」と感じたときに。

きっと、かつての赤池さんと同じように、「あのとき挑戦していれば」「本当はやりたいことがあった」と、過去にできなかったことを後悔している方はたくさんいると思います。そうした方々に、伝えたいことはありますか?
…難しい問いですね笑。ただ、私は、自分のこれまでの人生を見た人に、「人生って、いつでもやり直せる」「変えられる」と思ってもらえるような存在になりたいと思っています。
仕事をしたり、結婚して家庭を持ったり、誰かを支える立場になる。若い頃は「自分自身がこうしたい」と自由に考えられたのに、仕事や家庭があると、そうはいかなくなることがありますよね。
そんなとき、こういうふうに思うのではないでしょうか。「自分はこうしなきゃいけない」「自分は、こういう役割だから」って。でも、そう考えるほど、ときに「本当の自分」を見失ってしまうこともあると思うんです。
私自身、母親になって、子どもを育てて、家を守らなければいけないとなったときに、「自分って、一体何だったっけ」「私って、何だっけ」とよく悩みました。育児をして、ご飯を作って、掃除をして、ただ毎日が過ぎていく。「私の人生は、これだけしかないのかな」って。
同じように感じている人──特に女性の方は、たくさんいるのではないでしょうか。
でも、私は、自分の人生はいつでもやり直せるし、変えられると思っています。今は、できない理由だけが視界に入ってしまって、諦めてしまっているかもしれない。でも、なにかひとつでもきっかけがあれば、いつでも「自分」は取り戻せる。
私の場合は、夫からの「絵を描いてみなよ」の一言がきっかけですが、私も、そういうきっかけを与えられる人間になりたいと思っています。
ご自身がきっかけを受け取ったからこそ、今度は誰かに届ける側になりたい、ということですね。一方で、「自分には、そのきっかけがない」「周囲に支えてくれる人がいない」と思っている方には、どんな言葉を掛けたいですか?
…これも難しい問い笑。
たしかに、私自身、ある意味とても恵まれた環境だったのかもしれません。夫という存在がいて、両親も、私の好きなことをたくさんさせてくれました。だから、そういう人がいないと感じている方に、私が偉そうなことを言ってもいいのかな、とは思います。
ただ、最近、大切にしていることがあって。それは、ふとした瞬間に、誰かがほんの少しでも愛情を向けてくれたら、そこで受けた愛情をちゃんと返していく。
作品が売れなかった頃の私は、「自分が、自分が」という気持ちでいっぱいでした。「どうやったらうまくいくんだろう」「どうしたら私のことを知ってもらえるんだろう」「私のことを見てほしい」。そんなことばかり考えていました。
でも、そんな時期でも私を見つけて、「素敵だね」と言ってくれた人がいたんです。
そのときに感じた、「嬉しい、ありがとう」という気持ち。それを、言葉だけで終わらせるのではなくて、自分の行動を通して返そうと思いました。
「自分の行動を通して返す」というのは、具体的にはどういうことですか?
私の場合は、絵を描き続けることです。「そう言ってくれたあなたの気持ちを大切にして、忘れずに、これからも頑張ります」と。そうすればいつか、その方も改めて「この絵を買ってよかった」と思ってもらえるんじゃないかなって。
そうやって活動を続けていくなかで、また新たに「この絵、素敵ですね」「あなたの絵が好きです」と言ってくれる方に出会うこともあります。そのたびに、私はその人たちに、これからの活動を通して、全力で返していく。
思うのですが、そんなキャッチボールによって、人はお互いを高め合えるのではないでしょうか。
愛を受け取ったら、愛を正しく返す。そうして愛情を返していくことで、自分も変わっていけるし、周りも変えていくことができると思っています。
大きなことでなくても、誰かが掛けてくれた一言や、ほんの小さな気遣いでも、それを受け取ったら、「ありがとう」と伝える。自分にできる形で、相手に返していく。そうすることで、幸福度もすごく上がると思うんです。「誰かに、何かを届けることができた」と感じる瞬間に、人はすごく幸せを感じると思うので。
誰かが向けてくれた小さな気持ちに気づくことが、大切なのかもしれませんね。赤池さんご自身は、これから作品を通して、どのようなものを届けていきたいですか?
「私ってどんな人間か」「自分はどうやって生きていきたいんだろう」──そういうことを考える、きっかけになるような絵を描いていきたいと思っています。
自分の内面を見つめて、「こういう生き方がしたいんだ」と気づけるような…。「自分がどんな人間か」なんて私自身も答えは出ていないので、詳しく説明しろと言われたら難しいんですけど笑。でも、生きていく上で、それがすごく大事だと私は思っているので。
「自分を知る」ことは、「どう生きたいか」に直結していると思うんです。だからこそ、それを考える「きっかけ」を与えられる絵を描きたい。
「自分」じゃなくなる瞬間は、誰にでもあるかもしれない。でも、「自分」は、いつでも取り戻せる。
私は、夫が「絵を描いてみたら」というきっかけをくれたから、今があります。だから今度は私が、誰かにきっかけを届けられる人間になりたいです。
